目の前に居る男は可愛い顔をした悪魔の化身なのだろうか。見慣れたはずのその笑みが今日ほど憎たらしいと感じたことはない。すぐ近くでは楽しそうに声を上げて笑っている子供やたくさんの大人や同い年くらいの人や様々だ。なのに何故!何故!何故!
「ほら、おまえがプール行きたいって言ったんだろ?」
にやりと黒い笑みを浮かべた泉が悪魔に見える。むしろ人間ではないのかもしれない。チラリと泉を盗み見ると実に楽しそうに目を細めて私のことを見下ろしている。
(ま、魔王だ…)
「俺はいいけどね、手、離しても」
するりと泉が私の手からすり抜けようと一歩後ろへと後ずさる。私は慌てて泉に捕まっていた手に力を込める。ブッと頭上から泉が噴出して笑いを堪えている声が聞こえる。
「おまえ…ククク…今の顔っ…」
掴んでいる手が小刻みに震えている。震えていると言っても寒さとか恐怖とかではなく笑いからっていうのはわかっているけれど。普段の私だったら返す言葉の一つや二つは言っている。でも、今は、今だけは…!!私だって命が欲しい。
「な、何とでも言って!!今はそれどころじゃないんだから!!」
「だったらプール来たいなんて言うなよ」
そう。私と泉が居るのは電車に乗ってやってきた市民プール。だってだって、夏は夏大があって会うこともおろかデートなんてもってのほかだった。だから私がプールに行きたいと言って泉を無理やり引っ張ってきた。
「だってしょうがないじゃん!泳げないんだもん!」
「いや、んな開き直られても」
そして今の状態は泉の両手を私が必死に引っ張ってバタ足をしている。浮き輪を持ってくるのをすっかり忘れてしまって泉が手を離したら私はプールの底に沈む。確実に。
「俺は泳げないのにプールに行きたいなんて言うおまえに呆れるよ」
「う、うるさい!!」
「へー、はそういうこと言うんだ」
「へ?」
ニヤァと泉の口元が歪む。まずいと思ったときには既に遅い。黒い笑みで私を見下ろしている。…小さい子どもが見たら泣いちゃうよ、その顔!!
「う、嘘!泉、嘘!!」
「俺がこうしてワザワザ手を引いてやってんのに」
「い、泉、ご、ゴメっ…」
謝罪の言葉を述べる前に言葉を発せなくなる。泉の手が離れると同時に体の支えがなくなって水の中へと沈む。いきなりのことだったから口の中にプールの水が入ってくる。泉の顔が見えない。ゴボゴボと自分が息を吐く音だけが聞こえる。必死になって手を差し出して泉の手にしがみつく。顔を勢いよく上げると泉の実に楽しそうな顔。
「おまえ…ま、マジで泳げないんだな…っくく…!」
呼吸を整えるのに必死で、肺いっぱいに空気を吸い込む。今の私の顔は半泣きだし、必死の形相で(目も血走ってるかもしれない)非常に可愛くないかもしれない。でもそんなことは気にしてられない。どんなに笑われたって泉の手を離してやるもんか…!!
「てか、、手強く握りすぎだって」
「だって泉また離すでしょ!?」
「もう離さねぇよ。監視員に何事かって思われるだろうしな」
「ほ、本当?!本当に本当?!」
「マジ」
「絶対に絶対にっっ、離さないでね!!」
力を込めて泉の手を握り返すと「しつこい」って笑いながら握り返してくれた。そんな泉は意地悪なんだか優しいんだかわからない。それでも夏が終わりかけている8月30日。泳げないけれど最高の思い出が作れました。
(必死にすがりついてくる姿が可愛くてワザと意地悪してるなんて言えない)