出た声は酷くかすれていて耳に響いた。目の前の彼にはどんな風に伝わったんだろう。じわりと背中に伝う汗が気持ち悪い。

「あ、べ…」
、おまえ…何やってんの」

 何をやってるの、だなんて阿部はなんて残酷なんだろう。阿部が机の間をすり抜けて私のほうへと近づく。私も阿部の席から立ち上がって真正面に向かい合う。
 ちらりと阿部の視線が一瞬、から外れて机へと移る。彼女もそれにつられたかのように机へと視線を落とす。

「それ…俺が今日、木下にメアド書いて渡したやつだよな」

 視界でヒラヒラと跡形もなくなったメモ帳が風に踊る。何処かの窓が開いているんだろうか、そんなことにも気がつかなかった。歪んだメモ帳から見える可愛らしいピンク色が、夕日が差し込んだ教室に不釣合いで、何処か異質に感じられた。



 熱い掌で肩を掴まれた。ゆっくりと顔を上げると真剣な阿部の表情。きっと怒っているんだろうな、と思う。木下さんが阿部にメアドを聞いたのは一度だけじゃない。すべて私がメモ帳を破り捨ててきた。阿部だったらそんなことお見通しなんだろう。阿部が私の肩を掴んだ腕に力が入る。ギシリと骨が軋む音が聞こえた。

、答えろよ」

!!」

 阿部の瞳に私が映っている。すぐ目の前には真剣な阿部の表情…。怒られる。嫌われる。軽蔑される。そんなことわかっている。それでも…それでもこの今、この時間を阿部が私を見てくれている。嬉しい。

「おい、何か言えよ!」
「そうだよ」
「そうだよ、私が今まで全部やってた。木下さんの机からメモ帳を探し出して破り捨てて
たの」
…」
「ねえ、阿部、今まで二人でなんてしゃべったことなかったよね。どう?私のこと軽蔑し
た?嫌いになった?頭が可笑しい女だって思った?」
「…何でこんなことすんの」

少し俯いた阿部の表情は私からはまったく見えない。それがかえって都合がよかった。阿部の軽蔑が含まれた表情の目で見られたら我慢できない。耐えられない。我侭だってわかってる。

「何でって…木下さんのことが嫌いだからに決まって」
「嘘だね」

 阿部が顔を上げる。キリッとした瞳には強い意志が感じられる。思わずは黙る。遠くで吹奏楽部だろうか、金管楽器の音色が聞こえる。

「おまえがそんなことで、こんなくだらねぇことするわけないだろ」
「何でそんなこと言えるの、阿部が思ってるほど私は良い人なんかじゃないよ」
「そんなの誰だってそうだろ。でも、そんな理由じゃ納得できねぇ。ちゃんと言えよ」

 体の奥からじわりとあふれ出しそうになる。泣きそうになる。ぎゅっと思い切り瞼を閉じて押さえ込む。こんなところで泣いては駄目だ。こんなところで泣いちゃ駄目。

「だから…」
「だから?」

 言いたい。好きだって伝えたい。阿部が好きだよ。好き。好き。大好きだよ。でも私にはそんなこと伝える資格がない。汚れた、歪んだ私から阿部が好きだなんて言えない。
 阿部の腕が伸びる。の頬に触れて俯いていた顔を無理やり上に向かせる。真正面から瞳がぶつかりあう。



 低く諭されるような声音。私が大好きな声。私のことを見て。私の名前を呼んで。ずっとそう思って来た声、瞳が今この瞬間に私にぶつかってくる。じわりと視界が揺れる。阿部が触れた両頬がひどく熱い。

「…阿部が、阿部が…好きっ…」

 見開かれた阿部の瞳に映る私の顔はなんて醜い。言ってしまった。泣いてしまった。もうなかったことには、できない。

「あ、べが…阿部がっ…好き、なの…私だけを、見て、ほしかっ…た」

 阿部がを包んでいた掌を離す。はずるずると座り込む。涙を流し、阿部が好きだという彼女。阿部はそんな彼女を真上から見下ろす。今まで真正面に向かい合っていたクラスメイトを小さく感じた。

「何だよ、それ…だから木下の机、漁って俺のメアド捨ててたってわけ」

 コクリとの頭が頷く。阿部が彼女と同じ目線になるためにしゃがむ。は泣きやむことを知らない小さな子どものように嗚咽を漏らして涙を流している。

、目つむれ」

 真正面にしゃがんだ阿部の表情は涙でかすんでまったく見えない。殴られる。当然だと思った。私は手で顔を乱暴に擦り瞳を閉じる。
 阿部の腕が振りあがる。そのまま彼女の後頭部へと手を添えると自分のほうへと引き寄せる。よろめいた彼女を抱きとめる。シャンプーの香りだろうか。甘い香りが鼻を掠めた。

「あ、べ…?」

 困惑した彼女の声が俺の胸元から聞こえる。その声を無視してかき消すように俺は背中に腕を回してきつく抱き締める。

「おまえ、本当馬鹿だよ」
「こういうのって最低だろ。もうすんなよ」
「次やったらマジで怒る」

 阿部の胸に埋まったの頭がゆっくりと上を向く。腫れた赤い瞳が痛々しい。

「阿部…怒ってないの…?」
「いや、怒ってねぇってのは嘘だけど…」
「何で?私だって最低なやつだよ?酷いやつだよ?許していいの?」
「自分で言うなよ」

 か細く今にも消えそうな声のわりには酷く自虐的なことをいうに苦笑を浮かべる。腫れた目元に唇を寄せると弱弱しい瞳が俺を見つめる。

「俺だっておまえが好きだよ」
「…嘘」
「嘘じゃねぇって。俺がこんなこと嘘で言うと思ってんの」
「だ、だって…」

 信じられなかった。阿部が私のことを好き?自分に都合がよい夢を見ているのではないだろうか。でも、背中に回された腕も、今目元に感じた熱もすべて本物でしかない。

「い、いの?阿部…だって、私…酷いやつで…」
「いいよ。」

 背中に回された腕が肩に回って軽く体を離される。阿部と真正面に向き合う。さっきまでの真剣な表情はそのままで…瞳が優しい。

「いいよ。そのままのお前で」

 赦された。赦されてしまった。私の醜くて誰にも知られたくなかったこの罪を阿部に赦されてしまった。目の奥がじわりと熱くなる。呼吸が上手くできない。

「っ…ご、めんなさ…いっ…」
「俺じゃなくて明日、木下に言えよ。俺も一緒に居てやるから」

 阿部の骨ばった指がの目元をなぞる。頭を小さな子どもにするように撫でてやると今まで強張っていたの体が、力が抜けたかのように阿部の胸元に飛び込み背中に腕を回してきた。阿部もそれに答えるかのように彼女の背中に腕を回す。
 

跡形もなくなったピンクのメモ帳。
風に舞って飛んでいくのが阿部の視界に映った。






重 ね て く 世 界







(清いところも醜いところもそれが君自身なら好きだよ)