今もし君の心に僕がいなくても






 放課後の教室は朱色を通り越して、赤黒いほどの夕日が射し込む。私はこの時間が一番嫌いだ。目がチカチカするくらいに赤黒い夕日の色はまるで自分の心を具象化しているみたいに見える。
 今、私がやろうとしていることは最低なことだ。それは自分でも自覚している。でも、今回が初めててわけではない。もう三回目にもなる。慣れているはずなのに、やはり心が痛む。痛むのと同時に、痛みを感じている自分が大嫌いだ。
 無機質に並べられた机の間をすり抜けて、真っ直ぐに目的の机に辿り着く。静かに椅子を引き引き出しの中を覗き込む。きちんと整理されている机の中にはが目的としている物がすぐにわかった。手を入れて掴む。くしゃりとした感触が掌から伝わってくる。

(阿部のメールアドレス…)

 少し力を入れると紙は簡単に形を変えて崩れた。阿部の少し乱暴に書きなぐられた文字も一緒に歪む。指先で摘み上げて引き裂けば簡単にちぎれた。ビリビリと音を立てて床に紙切れが落ちていく。

(歪んでるなぁ、私)

 阿部が好き。ずっと前から好きだった。入学式の当日に偶々みかけた時に目を奪われた。あの力強い瞳に引き寄せられた。同じクラスだとわかった時は思わず飛び上がってしまいそうになるくらい嬉しかった。たとえクラスメイトになっても話すことはあまりなかったけれど、あの背中を見つめていられるだけで嬉しかった。毎日が楽しかった。
 床に散らばった紙切れを拾い集め、一直線にゴミ箱のほうへと足を進める。ふと目に止まった机に足を止める。

(阿部の机…)

 紙切れを手に持ったまま、阿部の机にゆっくりと近づく。みんなと同じ机のはずなのに何故だか触るのがためらわれる。それでも手を出して椅子に触れて引いてみる。ギィッと床が擦れる音が教室に響く。ゆっくりと椅子に座る。紙くずを阿部の机に広げてみる。千切れてしまった紙くずは書いてあった文字の原型はまったく留めていない。それでも切れ端から見える文字は間違いなく阿部の文字だ。

「阿部…」

 思わず言葉に出ていた。
 机に伏せてみるとひやりと冷えた感覚が頬を冷やす。目を閉じるといつも見ている阿部の背中が思い浮かぶ。
 このメールアドレスは阿部が彼女に教えたものだ。野球部の活躍で脚光を浴び始めた野球部員はやっぱり女の子の注目を一心に集めた。阿部だってその一人だ。今日、阿部がクラスの女の子にメールアドレスを聞かれていた。あまり話したことがない女子に声をかけられて眉間に皴を寄せていた阿部だが、女子が差し出したメモ帳に言われるままに自分のメールアドレスを書いていた。その光景だって後ろの席から見ていた。
 だから、誰もいない教室に阿部が書いたメールアドレスのメモを捨てる。持ち帰ったりなんてそんなことはしない。破いて捨てる、なかったことにする。私はそんなことを繰り返してきた。阿部が他の女の子と仲良くしているところを見たくない。醜い嫉妬心。

(こんなところ阿部に見られたら、どうなるんだろうか)

 フとそんなことを考える。あまり話したことのないクラスメイトの女子がこんなことをしていたら阿部は驚くだろうか。怒るだろうか。それとも気味悪がるだろうか。
 ぞくりと背中に冷水を浴びせられたような感覚が走る。怖い。阿部に嫌われるのが怖い。それでもこんなことをしている自分も嫌いだ。目の奥がじわりと熱くなる。ぐっと目を閉じる。気持ちを抑えつけないと涙がこぼれそうだ。

?」

 だから気がつかなかった。自分のことに精一杯でこちらに近づいてくる足音なんて聞こえなかった。
 振り返らなくても誰だかわかる。毎日目で追って、たまに呼ばれる名前に心弾ませていた。落ち着いて低くて心地よい声。それでも今だけは、今だけは一番聞きたくない声だ。

「あ、べ…」